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「反核運動がなぜ反原発につながらなかったのか」(11.9.2)
被爆地・長崎で考えた(1)
8月7日から9日にかけて、連帯労組全国青年部(準備中)は、原水禁長崎大会に5名の仲間を送り、全港湾とともに共同行動を取り組みました。
今年の長崎大会は、福島原発事故による放射能汚染が深刻化する中での開催となり、被爆地・長崎での取り組みは、大きな意味を持ちました。初日から最終日まで、常に参加者の中で議論されたのは、戦後の反核運動が、なぜ反原発運動に繋がらなかったのかという問題です。
被爆地として、過ちは繰り返えさないと誓ったはずなのに、第三の被爆地を作ってしまった。被爆者やその遺族から、悔しさが強く伝わるとともに、福島の県民と連帯しなければならないという声を聞くことができました。

大会初日、まず、爆心地から会場までのデモから始まった(8/7)
私たちは、路面電車に乗って、多くの被爆遺構をめぐり、一瞬で街を破壊し、多くの人を殺す原子爆弾、長年にわたって人々の身体を蝕み続ける放射能被害の恐ろしさを学びました。爆風によって歪み、丸焦げになった大学の正門や墓石、爆心地の真下から発見された人骨や遺品など、長崎では、被爆地の姿を今でも遺しています。こうした遺構めぐりを被爆2世や3世の方が案内してくれるのです。
電車と徒歩で市内のヒバクの跡をめぐる(8/8)

多くの犠牲者が倒れた爆心地の近くの川。

長崎医科大学の犠牲者の墓碑銘。 大浦天主堂の屋根にあった尖塔。原爆で飛ばされたまま今も。
特に心に残ったのが、被爆地近くの墓地です。長崎は、室町時代からキリシタンが多く、迫害の時代を耐えしのぎ、原爆投下によって、教会が破壊され、たくさんの信者が亡くなったそうです。そうした信者の墓は、日本式の墓石の上に、十字架がのせられ、原爆によって亡くなった方は、「原爆死」と書かれているのです。誰が原爆によって亡くなったのか、一目瞭然で、一家全員の名前が書かれているお墓もたくさんありました。 
そして、長崎は、三菱造船の街です。港には、多くの造船場が作られ、私たちが行った時には、海上自衛隊の軍艦を造っていました。長崎に原爆が投下されたのも、まさに「戦艦武蔵」をはじめとした軍艦を建造する工場が長崎に集中していたからです。
今後、全国青年部は、反戦、反核、反原発運動を主体的に取り組み、さまざまな団体と共闘していく機会を作っていかなければなりません。そのためにも、来年の原水禁長崎大会にむけ、いろいろな取り組みを考えていきたいと思います(ほ)。
被爆地・長崎で考えた(2)
青年部の行動として、平和長崎大会(原水禁)に参加しました。初日は爆心地から、大会の会場までデモをしましたが、沖縄平和行進とはまた違った印象でした。
三日間を通じて、一番印象に残ったのは二日目のフィールドワークです。 現地の人の案内で、医科大学や大浦天主堂の説明を聞きながら見て回りました。
本を読んでいきましたが、現地の方の生の声にはとうてい及ばず、とても心の響いてきました。
原爆経験者の話を聞ける最後の世代、といわれているので、できれば被爆者の方の当時のはなしや経験をもっと詳しく聞きたいと思いました。
世界には、推定、約2万3千発の核弾頭があり、原子炉の数も440基もある。一度に大勢の人間を殺害し、長期にわたって被爆者を苦しめてきた核兵器の廃絶を訴え、そしてまた、原子力発電の安全性のもろさが明白になった以上、原発廃炉にむけて組合運動によりいっそう力をいれていきたいと思います。
この三日間の行動は、とても自分にとって勉強になり、来年参加する青年層のために学習会を開き、取り組みたいと思います(善)。
大浦天主堂前で案内してくれた地元の関係者の方々と(8/8) 共同行動の全港湾の仲間たちと(8/9)
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